
河門市の運河:利根川の何倍もの水量
「知らない町を歩いてみたい、どこか遠くに行ってみたい」というのは、永六輔作詩、中村八大作曲の歌であったか。誰しも煩わしい浮き世のしがらみを離れて、ふらっとあてどない旅に出てみたい、と憧れる。目的地を定めず気の向くままに。
しかし、これは相当難しい。一人で気儘なスケッチ旅行に出かけようと思いたつ。先ずは日程を決めなければならない。仕事や他の約束が入っていない日を、あれこれやりくりして選ぶ。目的地は観光案内や旅の雑誌等を見たり、人に聞いて探す。現地までのルート、所要時間を調べる。宿を選んで予約する。会社勤めの時は休日に出かけるので、一人の場合は断られることが多い。日曜の夜なら大丈夫と分かってからは、月曜日に休暇を取って一泊で出かけることにした。しかし、予期せぬ仕事のトラブルや緊急会議があると、流れてしまう。
困るのは天気である。これも全く儘にならない。全て準備し勇躍でかけて、雨に降られるのは辛い。費用だって馬鹿にならない。
結局は気儘なはずの一人のスケッチ旅行も、あれこれと下調べをし面倒な雑事を処理して出かけるしかない。その結果、巷間良く知られた観光地や、風光明媚なところを巡ることになりやすい。これはこれで良い旅もあるけれど、もう一つ何かが足りないと思う。それは、意外性と驚きと新鮮さだろうと思う。
とはいえ、全く知らないところには、出かけようもない。だからといって事前に調べ過ぎるのも新鮮さを失う。行き当りばったりというのは、相当に難しい。だからロマンチックな歌になるのだろう。浮き世に住む身には所詮望めそうにないから、なるべく時間に余裕を取って横道、裏道、回り道を探し歩く。名の知れた観光地を少し外して、その近くを巡るのが秘訣だ。
仕事や用事があって旅に出るときは、意外に新鮮で新しい発見がある。旅行目的では行きそうにない場所に行くからだ。
サラリーマンの晩年に、中国の珠江を遡ったところにある江門市に出張した。現地で生産していた製品のトラブルがあり、開発責任者として否応なく行くことになった。子会社の香港駐在員の案内するままに、付いて行った。初めての中国であった。問題の解決が長引いて、結局二週間も滞在することになってしまった。連日の残業と休日返上で、ホテルと工場を往復する日々であったが、何もかもが新鮮な驚きの連続であった。
僅かな仕事の合間を縫って、香港で購入した葉書大のスケッチブックを片手に、見知らぬ異国の町をさまよった時の感動は、忘れ難いものだった。

「阿弥陀岳と赤岳」 F6
山は絵になるので、随分と描きに行った。近くは日帰りで奥多摩、奥武蔵、奥秩父、上州の山々、もう少し足を伸ばして一泊二日で行ける範囲の浅間山周辺、南アルプス、中央アルプス、北アルプスなどを描いた。しかし中には何度描きに行っても、なかなか良い絵が描けない山がある。
谷川岳もその一つだ。マチガ沢や一の倉沢の出合からは、迫力のある絶壁と双耳峰が見上げるように聳えている。しかしそれを絵にすることは難しい。あまりに近く視界一杯に聳えているから。4度程描きに行ったが、上手く描けなかった。湯檜曽川の対岸の山に登ると良いと思うが、簡単に行けそうもない。昨年の5月に水上近くの丘に、谷川岳を一望出来るポイントを見つけたが、少し遠すぎて山の形もバランスが悪い。結局谷川岳は、いまだに良い絵が描けていない。
もう一つ描けない山がある。それが八ケ岳である。初めての一泊スケッチ旅行が八ケ岳であった。28年程前のことだ。所属していた水輪会という水彩クラブのメンバーと、指導者であった日水会の加藤隆輔先生と一緒であった。このときも山は雲の中だった。なによりも未熟であった。その時の3号の淡彩スケッチが一枚だけ残っているが、それも山麓から東の甲州の山々を描いたものだ。その後4〜5回は行ったが、やはり描けていない。山麓の絵はあるのだが。 6号サイズの編笠岳の絵だけが、かろうじて一枚残っている。
北の稲子湯温泉に泊まりがけで行ったこともある。そこでも良いポイントを見つけるのが難しかった。帰る頃になってようやく、天狗岳の山体が一望で、前景も変化のある場所が見つかった。しかし描く時間はすでになかった。去年の夏にも、主宰する木曜スケッチ会で野辺山に行ったが、山頂は終日雲の中であった。夏は晴天でも、山頂に雲が湧くことが多いらしい。
八ケ岳はなだらかな裾野を引いて、その上に幾つもの峰が集まっている。赤岳が主峰と言われるが、多くの峰の一つにしか見えない。絵にすると散漫になりやすい。それに小海線のある東側は午後は逆光になる。
先日スケッチ会の下見で蓼科山に行った。その折に八ケ岳の西側の山麓を車で走った。その時にこちら側の方が、ずっと眺めが良いことに気付いた。改めて描きに出かけて、2枚描いた。西に遮る物がなく、陽が遥か北アルプスに落ちるまで明るい。唐松の紅葉が美しかった。

「都幾川の民家」F8
「人はパンのみにて生きるにあらず」という。しかしパンなくしてはまた生きられない。私も長い間、その狭間で足掻いてきた。
若い頃の自分に、パンではないものがあったか? 語るべき夢や目標があったか、はなはだ曖昧である。学生時代はむろん就職し結婚して以後も、主体性もなくただ目前の勉強や仕事に、追われていたばかりであった。34歳の頃に絵を学び始めて、ようやく自分なりの夢らしきものを持ったといえる。
それから30年後の今、その夢が、随分と矮小化し色褪せたが、現実になっている。確かにこの夢なくしては、ここまでの永い歳月を、生きて来れなかったろうと思う。
そして今、時々ふと途方に暮れている自分を知っている。しかし、にもかかわらず、今も何かが私を支えている。なんだろう? 夢とか具体的な目標ではない、何か?
そう、「まぼろし」なのかも知れない。心をとろけさせる美しい魅惑的な光景、私の中のまぼろしの桃源郷。あるはずはないと思いながら、しかしなぜか心の片隅でいつも期待している。いつかそれを描こう。
知り合いの篤農家から野菜を頂いた。蕪と里芋と大根、それにキャベツである。どれも取れたてで、見るからに健康そうである。以前にも一度頂いて、その美味しさを知っている。特にキャベツは大きくて艶があり、瑞々しい。
このキャベツを見て、若い頃に仕事で出かけた信州の飯田を思い出した。そこで「おたぐり」なる物を良く馳走になった。モツ焼きである。様々なモツが小鉢に放り込まれており、それを熱い鉄板で焼いて、タレを付けて食べる。別に大きくちぎられたキャベツが、無造作に皿に山盛りになっていた。他に野菜はない。焼いて食べるのかと思っていたら、同席の人たちは生のまま手でつまんで齧っている。見倣って焼いたモツを食べながら、このキャベツをバリバリ齧ると、何ともイケル。爽やかで甘みがあって、濃厚なもつ焼きと良く合う。これ以後病み付きになって、出張で飯田に行く度に食べた。後で知ったのだが「おたぐり」というのは、お腹からモツを「手繰り出す」が語源だそうだ。
五平餅も忘れられない。中央アルプスの山麓を少し登ると、佐倉宗五郎神社がある。そこに茶屋があり、五平餅を初めて食べた。胡桃と味噌のタレと、そこに添えられた山椒の香りが調和して何とも言えず旨かった。ここへも何度も通った。最近の高速道路のサービスエリアで売られている物とは、似て非なる物だ。
飯田でもう一つ連想した。「文七元結」である。何故それを連想するのか、どういう意味なのか、よく分からない。とにかく飯田と聞くと連想する。この際忘れないうちに調べようと思いついた。早速インターネットで検索して、40年振りに謎が解けた。
文七元結とは、本来は髪を縛る紙紐のことを言う。それ以前は麻紐を使っていたが、江戸時代に和紙で作られた丈夫な紐に置き換わったという。明治維新以後はちょんまげが無くなり、祝儀袋を飾っている水引が主な用途になった。この文七元結、水引の全国一の産地が飯田であった。今でも70%は飯田産であると言う。だから飯田の何処かに碑でもあって、市内をぶらついていて、それを読んだのかも知れない。40年程前のことだ。
別に「文七元結」という落語の人情話がある。幕末に三遊亭円生が作ったものだ。歌舞伎や映画にもなっているという。
鼈甲屋の手代文七が、水戸屋敷から頂いた代金50両を掏摸に取られて、大川に身投げをしようとする。そこへ通りがかった博打好きの左官が、引き止めて50両を貸してやる。娘が父を諌めるために、自ら吉原に駆け込んで得た金である。文七が鼈甲屋に帰ると、水戸屋敷に忘れてあった50両が戻っている。結末は、文七が元結屋になり左官の娘と所帯を持って、めでたしめでたしとなる話である。
馬刺を初めて食べたのも、飯田だったかも知れない。その後絵を描くようになってから、同じ伊那谷の駒ヶ根にも良く出かけた。知人の山荘にお世話になった。自炊なので町に買い出しに行くと、肉屋の店頭に馬肉が並んでいる。これを買って帰り、醤油にショウガとニンニクをすり下ろしたタレで食べた。歯ごたえのある赤肉である。これは富士山麓の吉田でも良く食べた。
東京では何所の肉屋を探しても、馬肉は見つからない。居酒屋のメニューで馬刺を見つけて、何度か注文して食べたが、出てきたのは柔らかい霜降り肉で高いばかりで、別物であった。

スケッチ会の下見で、紅葉の蓼科山に出かけた。過去に3度程行ったことがあるが、最後から25年以上経過しているので、下見の必要があったのだ。諏訪南ICを降りて紅葉の八ケ岳西麓を北上した。八ケ岳はこの西側から眺めた方が、絵になることに気付いた。昼頃から順光になるのも好都合である。甲斐駒ヶ岳や両神山は、昼には逆光になって色を失ってしまうので、かなり早く家を出なければいけない。
ホテルの立ち並ぶ白樺湖畔を避けて、静寂な女神湖畔に車を止めた。湖に優美な山体を写した蓼科山が、一望に見渡せる。その美しい山体を眺めながら、最初に登山したときのことを思い出していた。
暗い樹林を抜けて、急なこう配の登山道をよじ上った。苦しくて全身から汗が吹き出ていた。漸くたどり着いた山頂は、雲海の中であった。なだらかで広いその頂きは、大きな岩が一面に敷き詰められたように転がっていた。そんな記憶を辿っているうちに、ふと気付いた。
はて? いつ誰と登ったのか、一人だったのか、いや単独登山はありえない。何所に泊まったのか?その他の周辺の記憶が、みごとに全く抜け落ちていることに気付いた。何度も思い出そうとしたけれど、結局無駄だった。なにしろ40年も前のことだ。
諦めて湖畔を歩いていると携帯電話がなった。大学の同級生であった。
「ご無沙汰だったけれど、どうしてる?」
その声を聞いてはっとひらめいて聞いた。
「今蓼科山に来ているんだ。ところで昔俺と登山した記憶ないか?」
「そういえば、そんな気もするな。俺も登ったよ。たしかお前と一緒のような気がする」
「そうか、そうするといつもの仲間も一緒なのかな?」
「たぶんそうだな。俺も良く覚えていない。う〜ん。待てよ、昔のアルバムを調べると分かるかも知れないな?」
私はずぼらで昔の写真は殆ど手元に残ってないが、彼は見かけによらず几帳面だったのを思い出した。
「分かったら教えてくれ。なんだかこのままでは気持ち悪い」
彼からの計ったようなタイミングの電話も不思議だけれど、その数日後のメールによって私の記憶の空白は、予想もしない意外な事実で埋められたのは、それ以上に驚きであった。 彼から送られてきた何枚もの写真は、私の眠ってた記憶を刺激して、次第にその周辺のことが甦ってきた。学生当時仲の良かった5人の仲間と、2台の車に分乗して白樺湖畔に行き、そこでキャンプをしたらしい。その湖畔で4人の女学生と知り合い、一緒に登山したのだ。しかも帰りは、彼女たちを車に乗せて帰ったのだった。
人生には不思議なことがあるものだと思う。登山したときの苦しさや途中の原生林や、山頂の光景は鮮やかに記憶しているのに、なぜ楽しく面白かったはずの仲間や女学生との記憶が、全く欠落しているのか? 単なる老人惚けだって!う〜ん、そうかもしれないが。
翌週スケッチ会のメンバーを引率して、女神湖畔に行った。この前と全く同じ場所で休憩をしていると、携帯電話がなった。
「写真見たか?」同じ同級生からで、時間もほとんど同じだった。