脇 昌彦の随想、小説

人生の折々に思い感じたことを記した随想、自作小説。

No.82 夢と幻

都幾川の民家 「都幾川の民家」F8


「人はパンのみにて生きるにあらず」という。しかしパンなくしてはまた生きられない。私も長い間、その狭間で足掻いてきた。
 若い頃の自分に、パンではないものがあったか? 語るべき夢や目標があったか、はなはだ曖昧である。学生時代はむろん就職し結婚して以後も、主体性もなくただ目前の勉強や仕事に、追われていたばかりであった。34歳の頃に絵を学び始めて、ようやく自分なりの夢らしきものを持ったといえる。
 それから30年後の今、その夢が、随分と矮小化し色褪せたが、現実になっている。確かにこの夢なくしては、ここまでの永い歳月を、生きて来れなかったろうと思う。
 そして今、時々ふと途方に暮れている自分を知っている。しかし、にもかかわらず、今も何かが私を支えている。なんだろう? 夢とか具体的な目標ではない、何か? 
 そう、「まぼろし」なのかも知れない。心をとろけさせる美しい魅惑的な光景、私の中のまぼろしの桃源郷。あるはずはないと思いながら、しかしなぜか心の片隅でいつも期待している。いつかそれを描こう。



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No.81 信州飯田

 知り合いの篤農家から野菜を頂いた。蕪と里芋と大根、それにキャベツである。どれも取れたてで、見るからに健康そうである。以前にも一度頂いて、その美味しさを知っている。特にキャベツは大きくて艶があり、瑞々しい。
 このキャベツを見て、若い頃に仕事で出かけた信州の飯田を思い出した。そこで「おたぐり」なる物を良く馳走になった。モツ焼きである。様々なモツが小鉢に放り込まれており、それを熱い鉄板で焼いて、タレを付けて食べる。別に大きくちぎられたキャベツが、無造作に皿に山盛りになっていた。他に野菜はない。焼いて食べるのかと思っていたら、同席の人たちは生のまま手でつまんで齧っている。見倣って焼いたモツを食べながら、このキャベツをバリバリ齧ると、何ともイケル。爽やかで甘みがあって、濃厚なもつ焼きと良く合う。これ以後病み付きになって、出張で飯田に行く度に食べた。後で知ったのだが「おたぐり」というのは、お腹からモツを「手繰り出す」が語源だそうだ。
 五平餅も忘れられない。中央アルプスの山麓を少し登ると、佐倉宗五郎神社がある。そこに茶屋があり、五平餅を初めて食べた。胡桃と味噌のタレと、そこに添えられた山椒の香りが調和して何とも言えず旨かった。ここへも何度も通った。最近の高速道路のサービスエリアで売られている物とは、似て非なる物だ。
 飯田でもう一つ連想した。「文七元結」である。何故それを連想するのか、どういう意味なのか、よく分からない。とにかく飯田と聞くと連想する。この際忘れないうちに調べようと思いついた。早速インターネットで検索して、40年振りに謎が解けた。
 文七元結とは、本来は髪を縛る紙紐のことを言う。それ以前は麻紐を使っていたが、江戸時代に和紙で作られた丈夫な紐に置き換わったという。明治維新以後はちょんまげが無くなり、祝儀袋を飾っている水引が主な用途になった。この文七元結、水引の全国一の産地が飯田であった。今でも70%は飯田産であると言う。だから飯田の何処かに碑でもあって、市内をぶらついていて、それを読んだのかも知れない。40年程前のことだ。
 別に「文七元結」という落語の人情話がある。幕末に三遊亭円生が作ったものだ。歌舞伎や映画にもなっているという。
 鼈甲屋の手代文七が、水戸屋敷から頂いた代金50両を掏摸に取られて、大川に身投げをしようとする。そこへ通りがかった博打好きの左官が、引き止めて50両を貸してやる。娘が父を諌めるために、自ら吉原に駆け込んで得た金である。文七が鼈甲屋に帰ると、水戸屋敷に忘れてあった50両が戻っている。結末は、文七が元結屋になって左官の娘と所帯を持って、めでたしめでたしとなる話である。
 馬刺を初めて食べたのも、飯田だったかも知れない。その後絵を描くようになってから、同じ伊那谷の駒ヶ根にも良く出かけた。知人の山荘にお世話になった。自炊なので町に買い出しに行くと、肉屋の店頭に馬肉が並んでいる。これを買って帰り、醤油にショウガとニンニクをすり下ろしたタレで食べた。歯ごたえのある赤肉である。これは富士山麓の吉田でも良く食べた。
 東京では何所の肉屋を探しても、馬肉は見つからない。居酒屋のメニューで馬刺を見つけて、何度か注文して食べたが、出てきたのは柔らかい霜降り肉で高いばかりで、別物であった。



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No.80 不思議なこと

蓼科山

 スケッチ会の下見で、紅葉の蓼科山に出かけた。過去に3度程行ったことがあるが、最後から25年以上経過しているので、下見の必要があったのだ。諏訪南ICを降りて紅葉の八ケ岳西麓を北上した。八ケ岳はこの西側から眺めた方が、絵になることに気付いた。昼頃から順光になるのも好都合である。甲斐駒ヶ岳や両神山は、昼には逆光になって色を失ってしまうので、かなり早く家を出なければいけない。
 ホテルの立ち並ぶ白樺湖畔を避けて、静寂な女神湖畔に車を止めた。湖に優美な山体を写した蓼科山が、一望に見渡せる。その美しい山体を眺めながら、最初に登山したときのことを思い出していた。
 暗い樹林を抜けて、急なこう配の登山道をよじ上った。苦しくて全身から汗が吹き出ていた。漸くたどり着いた山頂は、雲海の中であった。なだらかで広いその頂きは、大きな岩が一面に敷き詰められたように転がっていた。そんな記憶を辿っているうちに、ふと気付いた。
はて? いつ誰と登ったのか、一人だったのか、いや単独登山はありえない。何所に泊まったのか?その他の周辺の記憶が、みごとに全く抜け落ちていることに気付いた。何度も思い出そうとしたけれど、結局無駄だった。なにしろ40年も前のことだ。
 諦めて湖畔を歩いていると携帯電話がなった。大学の同級生であった。
「ご無沙汰だったけれど、どうしてる?」
その声を聞いてはっとひらめいて聞いた。
「今蓼科山に来ているんだ。ところで昔俺と登山した記憶ないか?」
「そういえば、そんな気もするな。俺も登ったよ。たしかお前と一緒のような気がする」
「そうか、そうするといつもの仲間も一緒なのかな?」
「たぶんそうだな。俺も良く覚えていない。う〜ん。待てよ、昔のアルバムを調べると分かるかも知れないな?」
私はずぼらで昔の写真は殆ど手元に残ってないが、彼は見かけによらず几帳面だったのを思い出した。
「分かったら教えてくれ。なんだかこのままでは気持ち悪い」
 彼からの計ったようなタイミングの電話も不思議だけれど、その数日後のメールによって私の記憶の空白は、予想もしない意外な事実で埋められたのは、それ以上に驚きであった。 彼から送られてきた何枚もの写真は、私の眠ってた記憶を刺激して、次第にその周辺のことが甦ってきた。学生当時仲の良かった5人の仲間と、2台の車に分乗して白樺湖畔に行き、そこでキャンプをしたらしい。その湖畔で4人の女学生と知り合い、一緒に登山したのだ。しかも帰りは、彼女たちを車に乗せて帰ったのだった。
 人生には不思議なことがあるものだと思う。登山したときの苦しさや途中の原生林や、山頂の光景は鮮やかに記憶しているのに、なぜ楽しく面白かったはずの仲間や女学生との記憶が、全く欠落しているのか? 単なる老人惚けだって!う〜ん、そうかもしれないが。
 翌週スケッチ会のメンバーを引率して、女神湖畔に行った。この前と全く同じ場所で休憩をしていると、携帯電話がなった。
「写真見たか?」同じ同級生からで、時間もほとんど同じだった。

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No.79 スケッチ哀歌

渋谷駅東口「渋谷駅東口」 F4 水性ペン


 7月の天候不順で、野外スケッチの計画は何度も流れた。特に7月の後半に、北沢峠までバスで登って甲斐駒や北岳、あるいは5月に雨で描けなかった白馬岳を描くつもりであった。しかしいくら待っても、全く機会はなかった。
 このところ比較的体調も良く、高山で本格的に描くのは、この数年が最後のチャンスと思って、意気込んでいた。しかし北沢峠からの眺望は良くなさそうで、山道を場所を探して歩くのは今の私にはかなり無理だったと思う。白馬岳は下から描く予定で、問題はなかったのだが。
 30歳の頃にギックリ腰を患った。一時期は自分で寝返りも打てなかった。完治したと思っていたが、やがて何度も再発した。その後ジョギングをやりすぎて両膝の関節を痛め、以来すこし無理をすると、繰り返し発病する。また近年、患ったリュウマチと加齢が重なって、500mも歩くと膝が痛んだ。野外スケッチを生業とするので、歩けないのは致命的である。整形外科は応急処置以外は、ほとんど無力であった。
 3年ほど前から、中国出身の漢方の先生の指導で、丹念なリハビリに励んだ。
「痛くない範囲で歩いたり運動をしなさい。痛みが出たら痛みが取れるまで休みなさい。その加減は本人しか分かりません。無理をせず丹念に上手にやることです。食事を少し減らして、運動量を少し増やし、減量をしてください。少しだけですよ。週に2度程軟骨成分の多いものを、コンスタントに少しだけ食べなさい。食べ過ぎては毒です」
と概略こんな指導をしてくださった。
 私はこれを丹念に実行したのである。体重は5キロほど減って、平地なら休みながら、10Km程度は歩けるようになった。3年の弛みない努力の結果である。しかしこれからも無理は禁物だ。スケッチ旅行は又、費用がかかる。こちらも今の私には、無理は禁物である。
 8/8(土)の朝、永い不順な天候にしびれを切らして、スケッチブックを持って都心に向かった。お盆で休日だから、空いているはずである。高田馬場まで来て気が変わって、渋谷方面に行き先を変えた。原宿駅を描いて、渋谷東口、道玄坂、円山町を歩き回って、ペン画を5枚描いた。都会はなかなか刺激的である。途中で休憩をかねて名画座で「オリバー・ツイスト」を観た。白黒で無声映画であったが、良い映画であった。昼飯はかけ蕎麦一杯、夕飯は並牛丼一杯で済ました。スケッチの出来は良いのか悪いのか?自分でもよく分からない。「そんなことは、どうでも良い」と言うのは、言い過ぎか?
 掲載したスケッチは、渋谷の東口の歩道橋で描いたものだ。このあと歩道橋を南に回り込むと、下のビルの前に大勢の人が集まっていた。50〜60人はいる。カメラを持って脚立に乗っている。携帯で話をしている。道路沿いに物々しいTV中継車が4台も止まっていた。歩道橋の上から携帯カメラを構えている人もいた。ビルは渋谷警察署であった。それで、酒井法子が護送されてくるのでは?と気がついた。午前11時頃である。
 翌朝ニュースをみると、酒井法子は午後9時頃に渋谷署に護送されたと言う。あのカメラマン達は、11〜12時間ちかく、あそこで待っていたことになる。曇天だったとは言え、難行苦行だったろう。炎天であったら想像を絶する。プロカメラマンの過酷さを知った。
スケッチが雨で流れても、少々出来が少々悪くても、嘆くことはないのだと思った。


 
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No.78 見慣れた風景

里山六月「里山六月」 F6



 人は何にでも、すぐに飽きる。山海の珍味も、3回続くともう駄目である。感動的な光景も見続けているうちに、飽きてしまう。2度目は感動しない。初恋のときめきを、2度味わえる人はいない。だから常に新鮮なものを求めて、右往左往する。なんだか悲しい気がする。一方では、辛いことや嫌なことにも飽きて慣れてしまうので、それは嬉しいことだと思う。
 スケッチに行くと時折美しく感動的な光景に出会う。その時は何をさておき、出来るだけ急いでそれを描く。初対面の新鮮な感動で、胸が震えている間に描く。色褪せてしまわないうちに。
「鉄は熱いうちに打て」と言うが、冷めても又熱くして打てる。しかし感動は冷めてしまえばお終いである。

 見慣れた光景でも、突然美しく見えて感動することもある。季節や陽射しが変わったり、見る人の意識が変わる場合である。恋をしたら周りの風景が突然バラ色に輝き出した、というやつである。見る目が変われば、見慣れた風景に新鮮な美と感動を感じる。
 狭山丘陵に住んでいるから、見慣れた光景なのだけれど、ある日突然奇麗だなと感じて、急いで描いた。「里山六月」である。絵の中心に排水路がある。普通はこんな構図はとらない。私の気に入った絵である。



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プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



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